アートは「ワーク」
私達は人類である.そして私達は野山の動物と同じ生き物である。
人類は、はるか大昔石を道具にして、今はコンピューターを操る動物である。
ある時ある熱心な農家の方が、「もしかしたら、お山の生き物の方が幸せかも知れんの~」と、ふともらした。人は野山の生き物と違って、衣食住を自前でやって来たが、彼らは服は要らないし野山が住まいで食堂でもある。確かに彼らは大空が天井であり、大地が床である。そこにはあたりまえのダイナミックライフがあると言うのだろう。
私達はアートの意味を、何万年も前のネイティブな時代に見るが、最新の考古学はそこでは既に農耕が始まっていたと言う。アート作りは人の中枢部にある始原性に轟くが、もの作りはそこからは見える永遠性がどうにも見えない、そんな側面が農耕にはある。あのアマゾンのヤノマミは、猟は誇らしく取材させたが焼畑はあまり取材させなかった。
それはまだ野生を知る人々が、人類の生存活動としての農耕を受け入れる中で、アートを育んできたと言える。そしてそのアートは、自然から遠ざかって行く人間の哀歌として在るのではなく、人々が生きる為に生産活動をする時、あくまでも生き物であることを持続させる「ワーク」としてあるのだろう。
やがて科学も、人類の総力を結集しても人類はハエ一匹作ることは出来ないという事の偉大さを証明するだろう。やがて科学も、人類が「神」と命名しそれを営みの真ん中に置いて生きて来たものの何たるかを証明するだろう。
そんな風に吹かれながら、そんなアジアの農耕現場にアートを等置させて、アートと農耕の史的再考が始まっている。
6万年前のダチョウの卵に描かれた絵