水田稲作を拒否した縄文人
イネを栽培するには、灌漑や水田開発など、多人数での共同作業が必要であり、必然的にリ-ダー層と被支配者層という階層分化を生む。さらに大きく天候に左右されるため、豊穣儀礼とそれに伴う生贄というような犠牲を伴う。
■玉突き私権闘争に巻き込まれた江南人
5000年前前後、長江流域の苗族は、黄河文明の侵略に武装化したが滅ぼされ、雲南や貴州の奥地へ。その後、流域(良渚、石家河)では都市が巨大化する。これは強力な王権による搾取によって可能であり、北方の遊牧OR牧畜民の影響下。4000年前、良渚遺跡が終焉、長江文明は衰退し、代わって黄河文明。
■長江文明の滅亡は?
4200年前の気候悪化とそれにともなう北方からの畑作牧畜民の侵入が、つまり民族移動が長江文明を衰亡。長江文明の遺跡は6400年前から徐々に規模を拡大している。しかし、4500年前を境として、長江文明の遺跡は突然爆発的に巨大化する。ところがその巨大化した都市は4000年前に忽然と姿を消す。
●大文明の崩壊
紀元前2000年代末頃、良渚文化は、突然崩壊。大洪水によって葬られたらしい。
鳥居は、神社などにおいて神域と人間が住む俗界を区画するもの(結界)である。つまり、意図して聖域を作ることで、俗界を作ることになる。現在の雲南省とビルマとの国境地帯に住むアカ族の「パトォー・ピー(精霊の門)」という村の入口の門では、上に木彫りらしき鳥が置かれることや、鳥を模した造形物を飾る風習もあることが実地を調査した研究者から報告されていることから、日本の神社でよく見られる「鳥居」の原型は、アカ族らが長江流域から南下、避難してくる前、長江流域に住んでいた時代(百越人であった時代)の「鳥居」ではないのか、という説もある。
この列島の水田稲作のルーツ、この進化した食物生産体系、称して弥生時代であるが故に生まれる生活乖離、人間とは何か?生産をする生き物である。
これは長江を追われた苗族の鳥居