今哲学領域では、記号論が記号論を越えようとしている。いわばポストモダンの終演だが、基礎的な所で本来の記号、始原の記号は単一的ではなく、多様だった。つまり1は、2も3も含んでいたと言うのだ。それは記号は生まれているが知と自然を分離させない伝達ツールとして有ったと言うのです。いきなりそれは不可解だが、では記号がいつ単一に成ったのだろう。それは、農耕の開始によると思われる。例えば、ジャングルでの初期農耕で、果実が採れる木の周辺の植物を取り除く、それで多収になる。つまり一つの行為から一つの結論を得る。それが生産の原則でしょう。が、それで得る物だけではなく、失う物も有る。例えば、その木を短命にしたとか、かえって他の動物に取られる様になったとか、であるが単一行為を選択する事で目的を達する。限定的目的ではあるが、以前、狩猟期はそれを控えた。多様性記号を使っていた時代、情報量がはるかに多かった。だから、安易に触らないほうが良いとかの結論も出たのだろう。芸術は、その多様性言語を操る行為といえる。